第92回目(1/4) 野澤 卓央 先生 小さなコツの専門家

あるがままを全受容してもらった時に、初めて前を向こうと思えた

今回のインタビューは、「小さなコツの専門家」で、『コツ塾』講師としても
ご活躍の、野澤 卓央(のざわ たくお)先生です。

先生は、社会に出たころから書きためていた、自らの失敗体験と
尊敬する人々からの教えを、『たった一つの小さな「コツ」があなたを変える』として
メールマガジンで配信し、2600日以上一日も休まず配信し続けていらっしゃいます。

「自らの体験を通して、人生をより良く生きる小さなきっかけを、
 未来をつくる子ども、後世に伝えていきたい」とおっしゃる野澤先生に、
『コツ塾』の活動や、今後の展望についてお話を伺いました。

インタビュー写真

「小さい頃はどのようなお子さんでしたか?」

本当に小さい時は人懐っこかったと思いますね。シンガポールに4歳から行くことになって、そこまでは自由にやっていたんですが、日本に帰って小学3年生になってから不登校が始まったんです。

「不登校になったきっかけはあったのですか?」

その時についたあだ名が「シンガ」とかで、「おい、英語しゃべってみろよ」とか言われたり、まだ当時20数年前は東京でもないので、帰国子女が少なかったので、水が合わなかったんですかね。そういうのがあって学校へ行かなくなったという感じですかね。

当時、先生もまだ不登校についての理解もなくて、登校拒否という言葉が出るか出ないかくらいの時で、最先端を走れたなと思います(笑)。当時の子ども時代の自分から見て、自分の意見を言ってそれを受け入れてくれた両親に感謝すべき出来事だと、今はそう思っていますね。

「お家では何をしていましたか?」

何をしていたんでしょうね? 今、言われてふと思い出したのが、アルミホイルを使っていろんな物を形作ったりだとか。鉄のハンガーを切って先をとがらせて、弓矢を作って放ったら、家の大黒柱に深く刺さって親に怒られたりだとか。

火縄銃を作ろうとして、花火の火薬を固めていたらボーンとなって真っ白になったり(笑)。そんなことを、今言われて思い出しましたね。

「ご自分で工夫して作る、クリエイターでしたね?」

結構、挑戦するのが好きだったかもしれないですね。でも言われるまで忘れていましたね。何かに夢中になるのが好きだったんです。熱中するタイプでしたね。

「その後、中学・高校時代はいかがでしたか?」

中学時代は、300日以上は休んでいましたね。小学6年生くらいから、家族がバラバラになったのを境に1人になって。最初の半年は真面目に学校に行こうと思ったんです。でもいろんなことが重なったんですよね。

名古屋にいたのですが、“親子ふれあい運動”と言って、給食が廃止になったんですね。「自分で弁当を作らないといけないやないか。何がふれあいだ。この野郎!」と思って、コンビニでご飯を買うようになり、段々いろんなことが嫌になり、中学には行かなくなりました。

高校は、日生学園というダウンタウンの浜ちゃんが通っていた全寮制の学校で、300人の寮でした。24人部屋で仕切りもなく、先輩後輩が一緒でした。朝は5時起床。そのあと足をそろえて5kmマラソンとか、まさに軍隊教育でした。

標高400mの山の上にあって、校門まで5qあるような完全に隔離された学校でした。イヤで耐えられなくて、何回も脱走しましたね。

僕は心のことを扱う中で、発達心理学のエリクソンの“発達段階”に感銘を受けました。土台は全受容されること。理屈ではなく肌の感覚やふれあいや、人に愛される経験がないと、人を愛せないというものがあると思うんです。そういう土台を作ってくれたのは両親です。

「全受容ですか?」

今では、私の母は限界を超えてまで自分を愛してくれたと理解できて、感謝しています。でも当時は理解できていなくて、「なぜ僕は見捨てられたんだろう? なんで家族をこんなに不幸にするんだろう?」という感覚しかありませんでした。

一方、父は、仕事で経済力の面で僕を支えてくれて見守ってくれたのに、当時の僕はそれにも気がつきませんでした。名古屋から三重県の学校の寮に入れられて、逃げて名古屋に帰ってきたんです。でも自分には帰る場所もない。17歳の自分の夢が「学校を辞める」だったくらいなんです。

その時、友達のお母さんだったんですけど、静岡で自営業を営んでおられて忙しかったのに、その方が仕事を休まれて名古屋にホテルを取って、学校から失踪した僕をタクシーで1週間ずっと、名古屋中を探しまわってくださったんです。

「お友達のお母さんが、ですか?」

その友達の家にたまに行って「お母さんのから揚げ美味しいね」とか言って、甘えていたんですね。きっと自分の母と被らせていたんだと思いますね。

本当に今でも思いますけど、「ありがとう」の一言も言われてないのに、人の為に出来る。粗相しても、「元気で良かった。元気で良かった」とそれだけを祈ってくれる。友達のお母さんは1週間、タクシーでそこら中をまわって僕を探してくれましたが、結局見つかりませんでした。

最後、僕は警察に補導されて学校に連れ戻されたんです。その時、先生に叱られて、「その友達のお母さんがどれだけ心配したと思ってるんだ」と言われたんです。今まで「悪いな」とか「次は頑張ろう」というような気持ちはなかったんです。ただ今回は僕もさすがに「悪いことしたな」って思いました。

警察にも先生にも叱られ、どこに行っても叱られて、「学校行かないとダメだ」と正論ばかり言われてたんです。だから友達のお母さんに実際にお会いした時に、「ゴメンナサイ、探してくれてありがとう」って言った時、叱られるだろうと思ったんです。

しかし友達のお母さんは、いつも通りニコニコしていて「たっくん、本当のお母さんが元気だったら、私と同じことするんだよ」とそれだけ言って、全部包んでくれたんです。

良い悪いとかではなく、存在そのもの、何をしようが全部受け容れてくれて。そんなことをされて、子どもながらに涙しか出てこなくて、「良いとか悪いではなく、そのままの自分を愛されている」と思ったんです。


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「存在そのものを、受け容れてくださったのですね?」

今でも取ってあるんですが、それから2年間、毎週ずっと白い便箋で「元気かい? 頑張ってるかい?」と、友達のお母さん、手紙を送ってくれたんです。

実の息子が本気でヤキモチを焼くくらい平等に、本当に愛してくれたんです。「風邪引いたらダメだよ」と、ちゃんちゃんこを送ってくれたり。それから学校を1日も休むことがなくなって成績も3〜4か月後には400番からトップになったりね。

認めて褒めて貰いたかったんですね。愛情をわかりやすく認めてくれる女性の存在があった、と言いますかね。

良いも悪いもなく、学校に行く行かないでもなく、あるがまま全受容をして貰った時に、初めて前を向こうというか、自分を大切にしようとか、心の中にある光に向かってみようと思えたんです。そうやって、高校時代は「人は変わるんだな」と思いました。

「高校を卒業されてからは、どんな風に過ごされたのですか?」

ひどいですね(笑)。大学は7年間行きました。商学部に行きましたが、正直どこでも良かったんです。一日おきに受験すれば、三重の高校に戻らずに外泊できるので、わざと間隔を空けて受験しただけなんです。

大学には関心がなくて、たまたま受験した大学が商学部だっただけです。何を学びたかったというのはなくて、とりあえず高校を脱走したかっただけですね。

高校3年間、ジャージ姿の女性しか見たことがなかったんです。高校から帰った時に、100円玉を自動販売機に入れてジュースが出てくるだけで涙が出そうになったんです。全部取り上げられていたので、監獄とか留置所から出た人と同じ気持ちですね。

当時、僕達は外の世界を“下界”と呼んでいたんです。進学は“下界”に帰ることが目的だったんです。普通の私服の女の子を見たいとか、自動販売機でジュースを飲みたいとか、食べたいものを食べたいとか。

大学時代は自由になり過ぎて、大学に行ってもキャッチボールしかしてなくて、1年で取った単位は4単位でしたね。あとは、パチンコ、ボーリング、ビリヤードやらをやってましたね。ただそこに一生懸命ハマる癖があったんですね。

ボーリングやり始めたら、1日に20ゲームやったりするんです。自分と同じ左利きのセミプロの方を見つけて仲良くなって、その人から学ぶことに喜びを感じて。ビリヤードやスノーボードも、同じ感じでプロから学んでいました。

「プロから学ぶのですね」

スノーボードは彼女とスキー場に行ったんですが、僕があまりにへっぴり腰で、彼女に「嫌いになりそう」と言われたんですね。そのままスタッフルームに行って、「バイトないですか?」と聞いて次の日から働き始めて、結局彼女と別れたりとか。

とにかく夢中になる性格で、仕事でも遊びでもひとつのものを極めたいというのがありましたね。

これも静岡にいる友達のお母さんがやってくれたことなんですけど、高校時代、友達のお母さんに認められたい一心で、4日間寝ずに勉強したんですね。そうしたら成績が上がったんですよね。そこで成功体験を積めたんです。

運動神経も勉強も遊びも何も冴えるものがなかったのに、人の何倍もやって、その道のプロに教えてもらったら、100人中20人以内には入れるんだというのがすごい喜びだったんです。

「“極める”というのが、テーマだったのですか?」

性格でしょうね。最初から器用な方ではないけど、体を使って活かしていくことができるタイプでしたね。

「その頃から、その道の一流の人に習う、というのを実践されていたのですね?」

そうしないと追いつけなかったんです。皆のように器用に出来ていたら最初からそんなことはやっていないと思います。出来ない時に、プロから学んで体で覚えるまでやってみる。知ることより、出来るようになることに喜びが強かったですね。

「20歳くらいの頃、人に教えを請うことに抵抗は感じませんでしたか?」

なかったですね。そこよりも上手くなりたいという気持ちの方が強かったですね。あと、可愛がられるとご飯をご馳走してもらえたり(笑)。同世代だけでは味わえない会話だとか、物事を追及している人の話を聴くのが好きだったんですね。

「大学卒業後はどうなさったのですか?」

大学も7年通って就職活動もしていなくて、最後の夏に海外に行って、とにかく先延ばしにしていたんですね。海外に放浪の旅に出て、生き方もわからない、人生どうしたらいいかわからない。ただ、海外でいろんな子どもを見ているとキラキラ輝いている。僕は何したらいいかわからないからパチンコしたお金で、昼間からビールを飲んで横になっている。

17年前のカンボジアは地雷の影響で、子どもが死ぬ国No1だったんですね。何回か行くと、子どもの足が地雷で無くなっていたり、死んでいたり。小さい子どもが死ぬというのは、胸の奥が痛むんですね。自分は不満を抱えてはいるけれど、贅沢な暮らしをしている。

いろいろあった時に、そこにいた6歳くらいの小さい女の子と仲良くなってお菓子を貰ったんですね。その小さな女の子は大きなナタを振るって、野菜を切って一生懸命働いているんです。その時のお菓子は働いたお金から貰ったものなのかもしれないと思うと、その小さいお菓子が重た過ぎて。

パチンコなどに夢中になっているけど、自分が目指すものはここじゃないと、タガが外れたようにわんわん泣いて、「お母さんゴメン。お父さんゴメン。好き勝手してゴメン」と半日泣いてスッキリして、その後、「よし帰ろう!」と日本に帰りました。

就職する前にもいろいろ葛藤があって、日本に帰ってきたらみんなお金がないとか金欠だとか言うんですよ。でも困っているように見えないんですよ。車でハローワークに行ってたりだとか。

自分も何もやりたいことがわからないから、とりあえず知っている職業を全部書いてみようと思ったんです。うどん屋さんから始まって、30個くらい書いたら止まっちゃったんですね。自分はやりたい職業がないのではなくて、知らないだけだと気が付いたんです。

職業の数を調べてみると3万職あると分かったんです。人生82年が3万日なので、人生は有限だと気が付いて、1日1職やっても人生が終わってしまうと思って、「悩んでも仕方がない。とりあえずやってみよう」と思ったんです。

実家は農家だったんですけど、いつかは稼業を継ぐんだろうなと思って、名古屋の北部市場の仲卸に就職したんです。まずは流通から学ぼうと、キュウリをリフトで運ぶ仕事をしていたんです。ところが仕事がびっくりするくらい出来なくて。

キュウリの本数を慌てちゃうと覚えられないんですよね。ミスばかりするんです。ストレスで鼻から膿がでてきちゃって、ボロボロで。何とかしないと思って、首から手帳をぶら下げて、失敗と気付きを書いていったんです。

(次回につづく・・)

野澤 卓央(のざわ たくお)   コツの専門家 株式会社ラボ代表 オフィスノザワ
                    事業家、体験作家、講演家
                    NHK文化センター・大学講師、『コツ塾』講師

小学校6年生から中学時代は登校拒否児。高校時代も退学寸前の問題児だったが、友人の母親からの愛情ある励ましで更生。大学に進学するも、自分探しと称して、25歳までアジア放浪の旅を続ける。
しかし、カンボジアで、生きるために働く5歳の少女に出会い、自分は何と贅沢なことで悩んでいたのかと反省し日本に戻ることを決意。
帰国後、青果市場に就職。その後、美容室を運営する関連会社に入社し、企業内起業で美容商材を扱う事業部を立ち上げ、車の中で寝泊まりしながら日本全国を営業してまわり年商一億円の部署に成長させる。2006年に単身独立し、株式会社ラボを設立。
同じころ作家のひすいこたろう氏に出会う。氏の一言がきっかけで、社会に出たころから書きためていた、自らの失敗体験と尊敬する人々からの教えを、『たった一つの小さな「コツ」があなたを変える』としてメールマガジンで配信しはじめる。途中事業に失敗し一億円の借金を背負い、死ぬしかないとまで考えた時期もあったが、メルマガの配信だけは毎日続ける。現在まで2600日以上一日も休まず配信し続けている。
貴重な実体験とやさしい文体が口コミで評判を呼び、メルマガの読者からは「前向きになれる」「生きるためのヒントをくれる」など多数の声が届く(配信サイト「まぐまぐ」で殿堂入り)。哲学や仏道、ヨーガや先人の教えなど、難しいことでも自らの体験を通して咀嚼し、易しい言葉で分かりやすく説明することを得意とする。
現在は、株式会社ラボを経営する傍ら、多数の企業やNHK文化センター、教育の現場、小学校から大学でも講演活動を行っている。他、『コツ塾』、セミナー開催など多数。

<野澤卓央先生のHP>
【小さなコツの専門家 野澤卓央 公式webサイト】

<野澤卓央先生のブログ>
【たった一つの小さなコツがあなたを変える】

<野澤卓央先生の著書>
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10年間、1000人の成功者に聞いてわかった 仕事がうまくいく人の小さなコツ


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目立たなくても本当に必要とされる人になる小さなコツ


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あなたを変えるたった1つの「小さなコツ」


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一生を変えるほんの小さなコツ



インタビュアー:川崎綾子(かわさきあやこ)

川崎綾子

ゲシュタルト・再決断@府中「座★すわろう会」で活動中。グループの中で
お互いにサポートを得ながら、自分らしく癒されるセラピーをしています。
ペンギン好き。趣味はバレエです。

GNJゲシュタルト療法トレーニングコース修了、日本ゲシュタルト療法学会会員
NPO再決断カウンセリングジャパン会員
矢野惣一問題解決セラピスト養成講座(上級)修了
レイキティーチャー


インタビュアー:川田史郎(かわだしろう)

川田史郎

マーケティングプロデューサー、コーチ。

現状を変えていきたい人、何かをはじめたい人の
コーチングをしながら、
解決策のプロデュースや事業化のお手伝いをしています。


インタビュアー:大島まさあき(おおしままさあき)

大島まさあき

大島まさあきと申します。年齢は木村拓哉さんと同級生になります。

現在、働く悩み専門カウンセリングを行っています。
小田急 新百合ヶ丘で活動しています。
働くことに苦痛、違和感を持ったまま働き続けると
人生の大きな舵取りを誤る可能性があります。
自分を見つめ直す機会を持ってみませんか? お気軽にご相談下さい。
HP:働く悩み専門カウンセリング


インタビュアー:脇坂奈央子(わきさかなおこ 日本メンタルサービス研究所 所長)

脇坂奈央子

『道開きの心理士』 ……本来のあなたの道を開く、お手伝いをします。
ブライアン・ワイス博士直伝の、プロフェッショナル・ヒプノセラピスト。
前世療法・催眠療法を中心に、ニーズに応じた各種心理セラピーを施療。

心理士、認定THP心理相談員、統合心理セラピスト、心理カウンセラー、
米国NGH認定ヒプノセラピスト、認定キャリアコンサルタント、
代替療法セラピスト(レイキティーチャー)
HP:ワイス博士直伝の前世療法・催眠療法・心理療法★ラポール
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