第80回目(1/4) 子安 美知子 先生 シュタイナー教育

戦後の教育改革・男女同権という変化の中で

今回のインタビューは、「シュタイナー思想啓蒙と教育実践」の
日本における第一人者、ドイツ文学者で早稲田大学名誉教授でもある
子安 美知子(こやす みちこ)先生です。

子安先生は、千葉県長生郡長南町の21万坪の土地を有する
「あしたの国 シュタイナー学園・こども園」の運営母体
NPO法人「あしたの国まちづくりの会」顧問でもいらっしゃいます。

ルドルフ・シュタイナーによって提唱された「シュタイナー教育」。

子どもが意思・感情・思考において調和のとれた人間として
成長することを目的とし、発達段階に応じて独自の教育課題を掲げる
「シュタイナー教育」の魅力や可能性について、お話を伺いました。

インタビュー写真

「小さい頃はどんなお子さんだったのか、聞かせていただけますか? 」

第二次世界大戦が始まる少し前、日本の植民地時代に京城と言っていた今のソウルで生まれました。

昭和8年の生まれ。2年前に満州事変が、2年後にはシナ事変と呼ばれる日中戦争が始まり、小学校2年生になると、アメリカ・イギリスとの太平洋戦争が始まりました。小さめの局地的戦争から次第に大きくなり世界大戦に突入。その時代に、私は日本の本国ではなくて、植民地で生まれて小学校に上がりました。

6年生で敗戦、日本に引き揚げて帰らなければならなかった。30年後の娘の時代、さらに30年後の孫の時代の小学校生活を見ていて、私自身の子ども時代とは何という違いだろうって。いや、もう、自分の国が戦争をしている、という状態での子どもの生活と、平和が当たり前である日々に子どもであるっていうこととの、その違いはねえ、いくら語りに語っても分かるかどうか?

「どんな状況でしたか?」

韓国の人達が母国語を禁止され、日本語を話さなければいけない、日本の苗字名前に変えなきゃいけない。何から何まで、お前達は日本人だと言われていた。

日本が戦争に負けたということをラジオで聞いた日、正午のニュースでね。私はいつものようにお友達同士で遊ぼうと思って外に出るなり、もう街中に韓国の人が溢れて、分からない言葉でわあ〜と、プラカード掲げてデモをしていました。

それが「デモ」って言葉で表現される行動であることも知りませんし、とにかく12歳の子どもにはわけが分からない。市電に乗ろうと足をかけたら、日本人は乗っちゃダメと、引きずり降ろされて。

別に命の危害とか、そういう感じはなかったけれど、それまでは大人達が、日本は世界一すぐれた国で、必ず神風が吹いて日本は絶対戦争に勝つ、と言われていた。それが小学校6年生の時、いきなりひっくり返ったから、子どもの心も頭もとにかく大混乱よ。今思っても、ふーーっ。

プラカードに書かれた「朝鮮独立万歳」の漢字は読める。「朝鮮」は知ってる。「万歳」も知ってる。「独立」っていう言葉は聞いたことない。漢字は「どくりつ」と読めるけれど、意味が分からないの。そういう教育は受けていなかったから。敗戦を経験して、着の身着のまま日本に帰った。それが幼児期最大の出来事でした。

「その頃の教育と、今の教育の違いについて教えていただけますか?」

今は、子どもの虐待のニュースとか、よその国で飢死する子どもの数だとか、北朝鮮がどうなってるとか、テレビでニュースを見るし、新聞を読んだら、色々な国のことが子どもでも分かる時代よね。ところがあの時代、新聞には子どもの虐待とか、そんなこと何も出てないの。

子どもは絶対に、先生にも親にも服従しなきゃいけない。そういう道徳教育がなされていた時代でしたから。どんな教育が良い教育だとか、そんなことは子どもの前では言わないの。もしかしたら大人達同士では、軍国主義教育は良くないね〜なんて言っていたのかもしれないけれど。

今になれば、自分の育った家庭環境も客観視して、良くなかったことや、父親に対する批判も母親に対する不満も口に出して言えるけど、あの頃は絶対に口にできなかった。そういう時代でしたね。

「どんなことが好きなお子さんでしたか?」

本を読むことはできたので、親がまだダメっていう本もこっそりとか、学校の図書室にフランスの本の翻訳、『ああ、無情』だの『アルセーヌ・ルパン』だのを読んだりはしていました。フランス革命の本も読んで、何か日本の当時とは違う価値観にも漠然とは気がつくこともありましたね。

「先生はドイツ文学を専攻されていますが、何かきっかけがあったのですか?」

父親がドイツの話はよくしていました。「お父さん、そのうちドイツに行くから」とかも。ドイツのメーテルリンクの『青い鳥』など、他にも色々ありましたね。

だからといって子どもの時に、自覚的にドイツ文学をやりたいなんて思たわけではない。お話が好きで、お話を読む。大人に「お話、して」とせがむ。できればお話を書く人になりたい、くらいな漠然としたイメージはありましたね。

父親は経済学専攻の大学教授。本を書いたり、翻訳したり、でもマルクス主義者でしたから、ベルリンに憧れていずれベルリン大学に行けるはずだった父も、左翼思想だったため順番を外されて、結局行けませんでした。そんな背景をもつ環境で、私は自然とドイツ文学に触れていたわけです。

「戦争が終わってからは、どのような変化がありましたか?」

戦争末期にはどの家でも食べるものが乏しくて、生活が苦しくなっていた。戦争に負けて、引き揚げという事態で、父は失業、お金はないし、食べ物もない。

ただ、一方日本に帰ってきたら、もう、が〜〜って世の中が変わってる。何か凄く違う。「自由」ってものの物凄さ! そこに加えて、男女同権っていう言葉が出てきました。

「それはおいくつくらいの時ですか?」

中1です。昔の制度で言えば女学校1年生。その時に、男女同権って言葉を聞きました。敗戦で引き揚げた先は父の郷里、岡山県の農村。祖母が一人で暮らしている家に、父母と5人の子ども。8人家族が食べていかなきゃ……。

その生活は大変だった。そこへ半年くらい経った昭和21年の春、戦後初めて、民主主義による総選挙というのがあった。今度から女の人も投票に行けると。確か4月10日でしたよ、子どもごころに妙にくっきり覚えている。

岡山県上房郡上水田村、その村役場で総選挙がある。女の人は初めてなので予行練習が必要ってわけで、何日か前に村中の女の人達が、講習を受けに行きました。六十歳の私のお祖母さん、その日は張り切って出かけましたねえ。

母の方は、一応東京の女子大を出て、当時としてはインテリですから、練習しなくても分かったのでしょうか、お祖母さん一人、練習に行って帰って、玄関入るなり興奮していたあの顔と話しぶり、私はそれを今でもよく覚えている。


インタビュー写真


「どんなご様子だったのですか?」

予行練習だから、本物の候補者ではなくて歴史上の人物が10人ぐらいリストにあったらしいわ。祖母が「小野小町の名前があったんじゃ」祖母は言い「わたしゃ女の人に当選してもらいたかったけん、こう、小野小町と紙に書いてな。そしたら、あんた、当選したんじゃ!」。あの興奮した声、忘れられない。

後あとになって、大学院の修士論文で『青鞜』の運動家、平塚らいてうをテーマにしました。その時に論文を書きながら、絶えず、あの祖母の興奮のことを思い出していましたね。そんな中で、男女同権っていうものを知ったんです。

やがて植民地から引き揚げた大学の先生達が豊橋市に愛知大学を新設して、父もそこに勤め始めます。私は、豊橋高等女学校というところに転校。市内には男子校の豊橋中学校というのもありました。

豊橋市自体も戦災がひどくて、かなり破壊された街でしたが、まもなく学制改革があり、男女同権だから学校も男女共学に、となります。

豊橋の街を地図上で線引きして、女学校からは半分の女子生徒が豊橋中学校に移る。中学校の男子生徒は半数が女学校に替わりなさいと。それぞれ半分に切って、入れ替えて共学の学校二つにしたの。それが今も続く県立高校です。私が行った方は、豊橋時習館高等学校っていう名前です。

「教育の制度が大きく変わった時代を、生きていらっしゃったのですよね?」

そういうこと。でね、面白いのよ。男子ばかりだった高校に女学生が来たから、今まで男子だけ教えていた先生達は、女子が半分も入ってきたら、程度が下がるって危機感を持ってて。それを、あからさまに口にする。

もう初日から思い知らされました。世界史の男の先生。教室に入るなりイヤミたっぷりな口調で「これからはご婦人方が入ってこられて……」。中学2年生の私達女学生にね。

「ご婦人方、伝統ある豊橋中学に入られましたからには、よっぽど頑張っていただかないと、我が校の学力水準が下がります」と。天下のエリート校というプライドがあって、邪魔な女が入ってきた…と、思っている。

いきなり私の前に来て、「ポルトガルの宗教は何教でしたか?」。指を私に向ける。私、「分かりません」って答えた。すぐ同じ質問を近くの男子生徒に向けて「ポルトガルの宗教は何教でしたか?」。そっちは「旧教です」って即答。そうしたら「やはり、ご婦人方の学力は相当低いようです」って皮肉な笑顔の先生。

もう、腹立ってねえ、「見てろ〜見返してやるぞ!」って思ったわけね。まあ、それは一例ですよ。その他にも数学の先生も、馬鹿にしきった顔で見下してる感じでね。

その頃、テレビはないし、お小遣いないから遊びに行くことも出来ないし、他にやることなかったから、毎日勉強して、グングン男の子達を抜いてやったの。

「男女同権の時代の変化に、大きな影響を受けられたのですね?」

で、別な話。高校2年生の時、電車の中で家庭科の先生とバッタリ出会いました。私、家庭科なんて馬鹿にしていて選択しなかった。先生に顔合わせて、ちょっとバツが悪かった。戦後の自由な気風で選択科目の幅が広く、女子がどんな難しい科目を取ってもよかったのね。電車の中で先生が「あら、森谷さん」て、私の旧姓で呼びかけて、こんなこと言いました。

「あなた、勉強頑張ってるわね〜」って。家庭科取っていないのに、私の名前なんか知ってるのか、と思った。続けて「でも高校時代って二度と来ない。学校のテストで毎回100点なんて取らなくていいのよ。100点取りたいところを、80点ぐらいになさい。あとの20点分は、高校時代でなければ出来ないことをするの。ボートに乗ったり、映画を見たり、うんと遊ぶことも」。

何か大事なことを言われた気がした。私は、その高2の秋、生徒会活動で副会長に立候補して、演説をぶって、男子の候補者を負かしたの(笑)。演説の時は、いつかの世界史の先生も聞きに来て、「森谷、よくやった」って、握手してくれました。

それから、点取り虫ではダメだという意識が強くなり、生徒会に打ち込み、授業をさぼる、不良ぶって、豊川という川でボートを漕ぐ、三本立ての映画館に入り込む、そんなことをやったんですね。

いつだったか、例の世界史の先生に「先生、覚えてらっしゃる?私が転入したとき、こう仰ったこと」って言いました。先生は「ええ〜、僕そんなこと言いましたか?」って、忘れていたらしい。「でも、先生ありがとう。先生のあの言葉で私は点取り虫になりました。だけど、家庭科の先生にも感謝しています。あのまま点取り虫で終わったら、私は鼻持ちならなかった」と。本心よ。この二人の先生の存在は忘れられません。

「ドイツへはどのようなきっかけで行かれたのですか?」

まず1966年に、一人で行ったんです。ドイツ側が出してくれる、ゲーテ・インスティテュートというところの、半年だけの奨学金で。

結婚して、子どもがまだ2歳だったけれども、私一人がようやく行ける程度のお金だったから、子どもと夫は置いて一人で行った。でも半年じゃあ、やりたいこがやれない。何とかして、今度は、子どもと夫も連れて3人で来たいと思って、一旦帰って来たの。

その4年後の1971年に、3人で行くことになる。その時は夫の奨学金。彼は日本思想史が専門ですけれども、日本のことをやる学者が、日本語しかできないのは駄目だと。そして学問の方法論としてドイツ哲学は必要だと。

彼は文献を読む上でのドイツ語力は持っていました。その頃ドイツの大学でも、日本の思想や哲学への関心を強めていましたから、フンボルト財団という、ドイツの奨学金に応募して採用されたんです。そこから、ミュンヘン大学の日本学科に、客員教授として行くことになりました。

家族手当も出たので、非常に助かりました、私と娘を連れて、3人で、1971年から1973年まで。今度は2年間。私達家族の歴史にとって転換を意味するほどの大きなことになりました。娘がちょうど満6歳で、小学校に上がる年です。

「当時、小学校へはどのようなイメージをお持ちでしたか?」

その頃に私が持っていた教育観は、少し変わっていました。まず私自身は、風変わりな学校で育ちました。戦争中の京城に日本の政府が置いていた「京城師範学校付属第一小学校単級」という長い名前の、たった1クラスしかない小さな学校。

1つの教室に1年生から6年生までいて、大きな四角い教室に各学年10人ずつ、それぞれ学年で輪になります。6年生が一人ずつ1年生を受けもって、休み時間とかは世話役をしてくれる。

先生は一人。先生がまず1年生の前で5分くらい教えるの。それから2年生の前に立って5分くらい……って回りながら教えるの。

先生が他の学年の前で教えている間は、自分達で自習する。1年生の級長さんが、「それでは今から書き取りをしましょう」「教科書の何ページの問題をやりましょう」「はい、答え合わせをしましょう」って調子。

引き揚げて日本に帰ったら、岡山県の普通の公立の学校に転校。6年1組とかいう教室に入っていくと6年生ばかりがいる。それまで、学校ってみんなが同じ教室にいて、先生がぐるぐる回っていると思っていたのですから、6年生しかいなくて先生がずっと立っているのは違和感がありました。

で、まずは自分の行った学校がそんな風変わりな京城の学校と日本の公立学校。次に今度は娘がドイツの学校に行って、これがまた私のケースとも比較にならないぐらいの風変わり学校。

そんな学校経験を積むと、もう学校なんてどこでもいいと思いました。その時その時、出逢った学校にご縁を感じて経験すればいいってね。相対的なものなんだ、学校も先生も。どこに行っても先生だって当たりはずれがあるよ、って感じでしたね。

担任にいい先生に当たればいいけれど、変な先生だったら、それはそれで乗り越えていくしかない。私は、どんな困ったことに遭っても、自力で乗り越えていかなくちゃいけないという人生観を持っていました。

「それはなぜですか?」

一つには子ども時代の育ちが関係していると思う。私は産みの母親を4歳の時に亡くしていて、6歳の時にとても優等生的な良妻賢母型の第二の母親がやってきたんです。そのことで、子どもの私には、今でいうトラウマみたいなものは結構残りました。

困ったこともイヤなことも、全てはチャンスである。自分の力で乗り越えなければいけない、という人生観になった。何事にも当りはずれってものがある。学校にも先生にもある。だから、ドイツでは6歳の娘を、単純に家の一番近くにある公立の学校に申し込みました。

言葉は分からない、いじめられるかもしれないけれども、乗り切るしかないと。

(次回につづく・・)

子安 美知子(こやす みちこ)  早稲田大学名誉教授
                     あしたの国まちづくりの会顧問

1933年生まれ。ドイツ文学者。早稲田大学名誉教授。
東京大学大学院で比較文学を専攻、早稲田大学に40年勤続し、ドイツ語ドイツ文学の教職に当たる。
ドイツ語辞典類、文学論文の他、『ミュンヘンの小学生』を皮切りに、シュタイナー教育、ミヒャエル・エンデをテーマとする著書、翻訳書多数。黒姫童話館エンデ資料室」、ビデオシリーズ『シュタイナーの世界』等の監修。
シュタイナー思想と教育実践の学びの輪の中で、1982年「日本シュタイナーハウス」を開設、1987年東京シュタイナーシューレ創立等の歴史をつくる。
1976年『ミュンヘンの小学生』に対して毎日出版文化賞受賞。
2012年春の叙勲において瑞宝中綬章を受勲。

<子安美知子先生のTwitter>
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<あしたの国 シュタイナー学園・こども園のHP>
【あしたの国 シュタイナー学園・こども園】

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エンデと語る―作品・半生・世界観



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鈴木明美

セラピールームChildren主宰、Team Oasis 代表
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心理士、認定THP心理相談員、統合心理セラピスト、心理カウンセラー、
米国NGH認定ヒプノセラピスト、認定キャリアコンサルタント、
代替療法セラピスト(レイキティーチャー)
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