父が大学の教授、母も同じ業種の臨床検査技師で、とにかく教育熱心な両親の下で、幼稚園入園前から「お受験」が始まりました。
結構厳しくて、地元の塾と大手の予備校に通っていました。成績が100点だと父はノーリアクションなのですが99点だと怒られるんですよ。「ベランダに出ろ!」と言われてコンクリートの上で3時間正座させられたこともありましたね。
だから「勉強して100点取れないのはおかしいんじゃないの」という発想になっていました。100点が普通で「次も頑張れ!」と言われて、褒められる訳じゃないですが、僕は褒められたくて頑張ってやっていました。
「幼稚園からずっと私立校に?」
父の転勤が多かったこともあって、私立に入ったと思ったら翌年、転勤で公立になったり、1〜2年で千葉と東京を転校していました。転校すると大体いじめられるんですよね。
小学校の卒業文集で「どんなテレビを見ていますか?」の項目に、テレビを見ていないので僕は答えられなかったんです。「ひょうきん族」が一位だったんですが、「ひょうきん族って何だろう?」という世界観です。
「お前、ひょうきん族も見てないの?」と、いじめられました。
「テレビは一切見ていなかったのですか?」
小学生以降はずっと、3時45分に学校が終わるとすぐに電車に乗って、5時から予備校の授業で、11時くらいに電車で帰ってくるのが普通の生活だったので、テレビは見られませんでした。
大学は国立なんですが、あちこちから人が集まってきますので、学力が最優先ではない人が多い訳ですよ。趣味があったり恋愛の方に関心があったり。僕にはそれは全然意味が分からない訳ですよ。日本人と外国人くらい差がありました。
「趣味も恋愛もですか?」
ないですね。生徒会長をやっていまして、生徒会長の側面と勉強する側面しかなかったです。まじめな生徒会長で「学校運営とは」「組織が」と言っていました。学校全体がそういう志向で、そこにいるとそれが普通なのかと思っていました。
でも大学に行くと違っていたのです。そのカルチャーショックがありながらも、出来るだけ適応はしていたのですが1〜2年しかもたなくて、2年生くらいから調子が悪くなり、うつの徴候が出始めたのです。
当時、内科に行っても、うつ病ってよく知らなかったのではないでしょうか。検査して異常がないので「君は異常ないよ」という診断になってしまうのです。「この手の痺れに異常なしはないだろう!」と、医者をどなりつけたこともありました。
体がおかしいのは明らかなのに診断がつかず、どうしたらいいか分からない状態が続いていました。
しかし活動的ではあったので、サークルを作ったり、トライアスロンをやっていました。千葉県を自転車で一周するといい練習になるんですよ。家庭教師をやって、わざと遠くの銚子や木更津の方にしてもらって、授業をしに自転車で40〜50km走っていました。
「活動的でいらしたのですね?」
はい、運動などはできたのです。外国人を集めて文化交流をするサークルを立ち上げて、1年の頃は戸惑いながらもやっていたのですが2〜3年になると動けなくなってしまいました。トライアスロンも出られなくなって・・・。
実は、サークルに文学部の心理学科の学生がたくさんいまして「どうなりたいのと訊けば、元気になる」という授業を受けたらしいのです。僕が「調子が悪い」と言うと、みんなでよってたかって「どうなりたいの?」「どうしたいの?」と訊く訳です。
「みんなはどうしたいかはっきりしているのに僕だけが分からない」と自己認識が変わっていって、「どうしたいの攻撃」が半年くらい続いて、ついにサークルに行けなくなって、それに止めを刺されて動けなくなりました。
その頃は一人暮らしで、親にも心配かけたくなかったですし、親に気付かれないようアパートに引きこもっていました。
「その状態での就職活動だったのですね?」
はい。バブルが崩壊した何年か後だったので、就職は大変な時期でした。たまたま一箇所DDI(第二電電株式会社・現KDDI)に通ったので、だましだましの生活が続けられるなと思って就職しました。そんな不調を抱えての就職活動でした。










