第10回目(2/4) 安藤 理 先生 セドナメソッド・コーチ&ソース・トレーナー
一番身近な所に、一人は理解してくれる人がいました
(・・・・前回からの続き)
「30歳頃にはじめてセミナーを開催されたのですね。それもご自身の看板で。」
そうです。経験がなかったですから、本の翻訳者の方が主催されていた「読者の集い」にまず顔を出しました。
「今度こういうコースを習ってきて、これからやりたいのですけども」ということを個人的にお話させていきました。
そうしたら、「じゃあ次回の集いのときに体験談を皆さんの前で話しませんか。」という機会をいただいたのです。案内のチラシも配らせていただいたりとか、少し広告料を払って出版社からの案内にも入れさせてもらうところまでしていただいて。
そういうサポートがあったので、最初の一歩が踏み出せたのです。
翻訳者の方はご自分の出版社を作って出版されていて、丁度スピリチュアルな本がどんどん出始めたころだったので、本が出るのに合わせて案内が出る、とそのまた次、という流れにタイミング的にのらせていただきました。
それと、「読者の集い」で出会った人の中で仲間ができました。
セミナーをやるスペースを使わせてくれる人も現れました。セミナーは毎回少人数で大体5人から10人くらいでずっとやっていました。そのうち何万円かするコースを継続して開けるようになって、それを4年続けました。
「最初のセミナーはどんな感じでしたか?」
誘導瞑想中心の一日セミナーで、確か宣伝も協力して頂きました。15人くらい参加者があって。完成度は高くなかったのですけれど、わりと満足いくものができました。いろんなフィードバックもいただいて。
その次からは計6日間くらいのコースかな。土日、土日、土日って一ヶ月くらいおいてやるような本格的な瞑想のコースなどもやるようになりました。やはり5人から10人ずつくらいは集まっていただけて、4年続きました。
はじめてから数ヶ月〜半年くらいかけて徐々にこちらが本業になっていきました。最初はフルタイムで会社に出ながら土日にやろうということにしていたのですけど、だんだん忙しくなってきて社長さんに相談したら、パートタイムに変えていただけました。
いきなり辞めるのも不安だったし、半年くらいかけて徐々に出勤日数を減らしていって、まあ大丈夫かなというところで社長さんに打診して辞めました。一回目の転職よりソフトランディングができて、少し賢明になったなと(笑)。
「最初は緊張されませんでしたか?」
始める準備の段階とか直前が一番緊張するのですけれども、やりはじめると自分が伝えたい内容なのでわりとスムーズにいきました。それよりはやれることのワクワクというか喜びのほうが大きかったです。
「お話を伺っていると、何かをやろうとしたときに、状況がすごく整っていて、次のステップへうまく繋がっているように思えるのですが。」
それはそうですね。恵まれていると思います。
自分の力だけで全部やりました、というタイプではないので、ありがたいことなのですけれど。
いろいろな出来事も、今振り返ってみると、上手く繋がっていますね。もちろん当時、そんな事は分らなかったですが。
逆境だったり、ネガティブに思えた体験も、最終的には自分が望む方向へ自分を推し進めてくれるきっかけになったかな・・・とは思います。
ストレスがあったり、体調が崩れた時も、ただ被害者になったりとか、落ち込んでいてはいけないという気持ちはありました。
その経験からいい方向に持っていくには何ができるのだろうか、どうしたらいいのだろうかということを考える、ということはやりました。
落ち込むまま「悪い目に遭ってしまった」というところに入っていくと、余計にコンディションも悪くなってしまったでしょうから、不調ながらも、そこだけは失わないように工夫していました。
それがいい方向へ戻せた、ポイントだったなと思います。
「奥様の存在が支えになったことはありましたか。」
又少し話が遡りますけれども、コンピューターの会社に勤めていた時代、ある瞑想法を習っていた時に合宿セミナーに行ったのです。そのときに彼女も参加していたのですが、初対面なのにすごく自然に話ができたのです。
そういう経験は人生初めてで、結婚しようと、何ヶ月かで決めて・・・。その年の初めに知り合ってその年の年末に結婚したのです。若いときの弾みというか、勢いなのですけれど(笑)。
瞑想でかなり意識がクリアーになっていたので、パートナーに求めるものは、「本当に自分が大事にしたい価値観とか興味の部分が共有できて、同じ方向で歩いていければいい」とはっきりしていました。
また、自分もそういうスタンスになっていたから、比較的自然な自分が出せるようになっていて、初対面の時からコミュニケーションがスムーズにいきやすかったのです。「あぁ、こういう人とならずーっと一緒に暮らしていけそうだなぁ」という感じになって。
会社を辞めたいと思っているという話もした上で、付き合い始めたことや、そういったことにも理解とか応援の気持ちを持ってくれて、これだったら大丈夫かなと、結婚したのです。
今振り返ると、一番身近な所に、一人は理解してくれる人がいたということは、会社を辞めてどうなるのかという心細い時期に、大きかったのだなと思います。
その後も同じ分野の事は、ほとんど一緒に習って行きましたから、その中で体験について話し合ったりして、お互いに変化してきましたし。
「そんな奥様と二人三脚の人生を始められたわけですね。独立から、八ヶ岳に移住するまでは、どのような流れで進んでいったのですか?」
合計7年東京にいたのですけれども、独立したのは、そのうちの後半3〜4年間でした。
6年目に引っ越したのが、新築の家でした。何ヶ月か住んでいるうちにシックハウス症候群(化学物質過敏症)の症状が出はじめて、そこから回復するまで2年くらいかかりました。
数年前から、「自然が豊かな所で暮らせたらいいだろうなぁ」という願望は少しずつ出てきていたのですが、それを真剣に考え始めたのはシックハウスになってからです。
すぐに引越しはできなかったので、応急処置だけをして、合計2年はそこで暮らしました。体調も崩れてしまい、体が弱くなったりしていたので、ボディワークをいくつかして、体を作り直したりしていました。
その間に、それから先のことも色々考えているうちに父親が亡くなるなど、いろんな変化があって、それが人生の転機になったのです。
仕事の方も少しマンネリ化してきて、ちょっと違った事をやりたいと思うようになってきた頃でした。
もう少し広くお伝えできるようなもののほうが自分の世界を広げるためにいいかなとか思うようになったんです。
そういう中で、これからどうしようかということを考えたときに、移住するということが一番やってみたい変化だったのです。
「八ヶ岳を移住先に選ばれた理由というのは?」
八ヶ岳という場所は、東京で暮らし始めた頃から何度か訪れる機会があって、気持ちがいい場所だなと感じていました。
最初はレジャーで訪れる場所だったのですけれど、何年か経つうちに、そういう場所で暮らすのはどうなのだろう・・・ということを想像したり考えたりするようになって、自然環境的にも、交通の便とか利便性の面でも、望んでいる条件をとても良く満たしている土地だと思ったのです。
ですから、住むとしたらここしかないと。完全に隔絶された田舎というわけでもないので、こういう場所であれば、こういう分野の仕事も続けていけるだろうという大雑把な見通しだけあって、何とかなるだろうと思ったのです。
父が亡くなってから、何ヶ月か真剣に考えました。今行く時だろうなとスッキリ結論が出たので、自分の中で最低限の目途だけはつけた上で、あとは行ってから考えようと思い切って実行しました。
生活を軌道の乗せるまで1〜2年はかかるだろうという見通しは持った上で実行しましたが、直観的な決断だったと思います。
具体的にこうやったらうまくいくという計画性を完全に持ってやったわけではないですから、皆さんにはお薦めできないですけれど・・・。一般的にはちゃんと計画してから移住するのが賢明ですよね(笑)。
妻には何年も通して話もしてきましたし、彼女も「東京でできる体験は一通りして、そういう暮らしもいいよね。」というところでは一致していたので、特に反対はなかったです。
(次回につづく・・)
安藤 理 セドナメソッド・コーチ&ソース・トレーナー (山梨県小淵沢町)
山梨県八ヶ岳南麓を拠点にワークショップや個人セッションを実施しています。
自分らしいイキイキと充実した生活へのきっかけ作りを、自然豊かな環境の中で体験したい方に、お役に立てれば嬉しいです。
個人セッションは電話でも実施していますので、遠方の方でも受講いただけます。
・自分を再発見するワークショップ 「ソース」
・スムーズな変化を促進する個人セッション 「セドナメソッド」
- ホームページ andoo.info
- http://andoo.info/
インタビュアー:長谷川 碧
「ソース」トレーナー。目標を努力と根性で実現してきたのが「ソース」に出会って一変!現在、情報サイト「なるにわ情報局」で自分らしく生きるヒントを発信している。
なるにわ情報局 :http://www.naruniwa.info/












