今はヒプノセラピストです。主に退行催眠をメインにしています。
どちらかというとセラピーでも、病気とか、心の深い悩みを持っている人を対象にするのではなく、普通の健康な人たちや、病気までいかないけれども疲れている人たち、調子が悪いという人たちを対象にしています。
そのケア+良い状態、つまりベストコンディションを作るために、どうしたら良いかというのをお伝えしたいと考えています。それのサポートです。
自分の最高の状態を保つため、最高の状態に戻すためのセラピーを、主にヒプノセラピーを用いてやっているという感じです。
「こうした世界に興味を持ったきっかけは何ですか?」
僕はあまりスポーツは得意ではありませんが、中学・高校の頃は武道に憧れていました。ジャッキー・チェンや、ブルース・リー、中国拳法がちょうどブームで、純粋に強いとかカッコいいとかに憧れました。
本は読んだりしていましたが、本格的に武道をやり始めたのは高校生の時で、たまたま道場が近くにあった少林寺拳法を習い始めました。習ううちに、精神についても学んでいくので、肉体的強さだけでなくて、精神的強さや人間関係だとかを教えてもらいました。
そこで精神の先にある宇宙観といったものを、先生が毎回、話をされるので、よく分からないながら興味を持っていったんですね。氣(気)の不思議さというのを目の当たりにすることもありました。
大学で合気道を始めてから、武道の中でも氣にものすごく興味がいきはじめました。
そうしているうちに浦田紘司先生という氣の先生に出会ったんです。
ハンドボールをやっていた弟が通っていた整骨院の待合室で、いとこのおばあちゃんがたまたま、氣を使った先生で視力をアップさせるいい人がいるという話を聞いてきたんです。
それをうちの母が聞いて、「あなた、氣に興味があるなら行ってみたら」、と言いました。
それが飯塚というところで場所を借りて開業している浦田先生でした。
飯塚というのは、福岡市内から、1時間くらいかかるところにあります。行く途中がすごい山で、日本昔話のような風景にびっくりしました。まるで旅行しているような感じでした。そこに通うことになったのです。初めて行った時は、結構衝撃的な出会いでした。
先生から学ぶようになって、さらに氣の世界を深めていった時、僕が20歳か21歳の頃、浦田先生が船井総研の船井幸雄先生に取り上げられて、本も書かれるようになりました。
浦田先生の弟子だった僕も、船井先生の講演会の時にカバン持ちのような形で行っていたのです。それで、僕も船井先生の本とか読むようになって興味を深めたというのが経緯です。
「ヒプノセラピーへはどのように移っていかれたのですか?」
浦田先生に会った、その最初の時に、瞬間催眠のようなことを氣の力でされていました。
最初に目のヒーリングをしてくれて、その後に、「ちょっと遊んであげるか」と言われて、手を持たれたら、そのまま倒れて起き上がれなくなった。さらに、「声を取ります」と言われて、しゃべれなくなって。そういう体験をいきなりしました。
先生はそれを催眠とは言わないんですよ。気功だというのです。
その時の驚きや手法を人に伝えたいと思ったのですが、僕は若いから、先生のようなシンプルな言葉で相手に言っても、そんなに伝わらないわけです。経験がないから、体験に基づいて言っているわけではなくて、感じて言っているだけなのです。
だったら裏付けになるような話とか学問とか、そういうものを勉強したほうがいいんじゃないかと思いました。
それで、生理学を教えてくれるような学校や、心理学を教えてくれる日本メンタルヘルス協会の衛藤先生のところや、いろんなことを勉強していました。心理カウンセラーのライセンスを取ったり、米国催眠協会の創立者のクラズナー博士に催眠を習ったりしました。1999年くらいに、クラズナー博士のところに、正式にヒプノセラピーを習いに行きました。
体のこととかもそうだし、心だけではなくて、ヒーリングとか、何とか療法とつくものなど、とにかくセミナー行ったり、ワークショップ行ったり、学校行ったりしていましたね。
その中で、たまたま、僕には退行催眠が合っていたのです。
「どのようにして教室を持つことになったのですか?」
その頃は大学生だったから、浦田先生も可愛がってくれて、そのうちお手伝いするようになりました。教室にも通っていたのですが、教室の受け付けをしたり、最初の準備運動を代わりにさせてもらったりしていました。当時は、それが仕事になるとは思っていませんでした。
福岡教育大学を卒業して、とりあえずは公立中学の数学の講師になり、講師として仕事をしながら、夜は弟子をやっていたのです。
先生の弟子も増えてきて、全国に広がっていったんですよ。それまで、ずっと付き添ってやっていたのは僕ぐらいでしたけれど。
それで、支部を作ろうという話になって、僕は若いですが、九州支部長という形になりました。四国、関西、東京とかいろんなところに支部ができました。
支部ができてから1年経ったときに、僕はまだ教室を持っていなかったので、先生が「お前はどうするんだ。」と訊ねられました。そこで、決心をして、「やります。」という感じで、北九州の方に教室を開くことになりました。
先生のためには、本当に何かしたいと思っていたから、自分のような若造に何ができるか分からなかったけれど、自分も何かやろうと思ったわけです。
それが、九州の気功教室の始まりです。
「その後の展開はどうなりましたか?」
1999年くらいに、気功の浦田先生の元を離れました。
先生もよく、「守破離」ということをおっしゃっていたのです。守って、破って、離れる、という時期がどうしても来るからということですね。
2000年に、4年間やっていた非常勤講師を辞めました。





