70年代にデザイン学校を出てから出版社に入り、雑誌のレイアウトやイラストの仕事をしていました。
26歳でフリーになって出版社や広告代理店から仕事をいただいていましたが、29歳の時にほとんど妊娠の可能性のない不妊と診断されました。さらに36歳の時に大病を患って入院してしまい、仕事を辞めざるをえませんでした。
「やはり過労からだったのでしょうか?」
そうですね。出版の仕事は徹夜になることも多いのです。雑誌のレイアウトは編集の最後の作業で、写真や原稿がどんなに遅れても急いで仕上げて、締切日に印刷所に入れないと発行日に間に合わないのです。だから気分はいつも「急げ、急げ」でした。
そこに不妊という心理的なダメージも加わって、相当ストレスフルな状況だったと思います。
「どのくらい入院なさっていたのですか?」
入院は1ヶ月ほどでしたが、病状が落ち着くまでに半年くらいはかかりました。今はすっかりよくなりましたが、ベーチェット病という難病でしたので、その当時はとても大変でした。
私が若い頃は、断続的にでも仕事を続けながら2、3人の子どもを育てていこうという、いわば生き方のシナリオがあったのです。
ところが病気と不妊で仕事も子どもも失って、白紙状態になってしまったわけです。そうなると将来がまったくイメージできないのです。「私はだれ?」「私はどこへ行くの?」といった、まさにアイデンティティを喪失した心理状態でした。
子どものいる人に悩みを話しても、「子どもがいたって大変よ。自由でいいじゃない。」と言われるばかりでした。
子育ての苦労もありますから無理もないのですが、不妊のクライシス(危機)はいっこうに理解されなくて孤独でした。悩んでいる私がおかしいのかしら?と思った時期もありました。
「どのような経緯でカウンセラーになられたのですか?」
その後大学に入って、心理学や文化人類学、女性学などを学びました。卒論のテーマに不妊を選んで、不妊の歴史を調べたり、当事者の方へのインタビューを続けていました。
するとやはり、「子どもを産むべき」という無意識の強い社会規範の中で不妊に直面することは、生活面でも心理面でも危機的なのだと解りました。
しかも、心身に苦痛を伴い経済的にも負担のかかる生殖医療を受けても、子どもが授かるカップルは半数ほどと言われています。
半数の人は喪失感や不妊で受けたトラウマを抱えたまま、養子を迎えるか子どもをもたない生き方を考えなくてはならないのです。
ですから、不妊の悩みを解消していくためには医療だけではなく、メンタル面でのサポート体制も絶対に必要だと思っていました。
ちょうどそんな時、1991年に不妊の自助グループ「フィンレージの会」がスタートしました。発起人の1人に声をかけられて、私も迷わず運営スタッフの1人になった次第です。
「どのような方が参加なさっていらっしゃるのですか?」
不妊治療のストレスにさらされながら、子どもをもたないことに対する周囲の干渉や圧力、子どもや孫を期待するパートナーや親に対する罪責感などに悩んでいる人がほとんどでした。
話し合いの場が開かれて、私はファシリテーターの役割をしていたのですが、私も当事者とはいえ、カウンセリングのスキルを身につけていないと相手が楽にならないばかりか、傷つけてしまう危険もあると思ったのです。それがカウンセリング講座に通うきっかけとなりました。
その一方で私自身が不妊の悩みを解消していった過程には、マスコミのインタビューが大きく係わっています。
フィンレージの会は日本初の大きな不妊の自助グループでしたから、マスコミからも注目されて、取材申込みが数え切れないくらい入りました。そのたびに私はよく自分の経験を話していたのです。
記者の方はインタビューの最中に自分の意見を言いませんよね。「子どもがいたって大変ですよ」とか、「こう考えたらもっと楽になれますよ」などというアドバイスもなさらずに、ひたすら耳を傾けてくれます。記者として当たり前の姿勢なのでしょうけれど、私にとってはそれがカウンセリングに近い効果がありました。
「インタビューを受けることがカウンセリングになっていた、ということだったのでしょうか?」
それがカウンセリングのすべてではありませんが、私にとってはその機能を果たしていた部分が大いにあったと思います。ある体験や思いを言葉にしたり、感じ取ったりすることで心の中がどんどん整理されていくのです。
ですから私は、ベテランの記者の方は皆カウンセラーになれるのではないかと思ったくらいです。(笑)
自助グループの仲間ともよく話をしました。それはもう、あきるほどしました。(笑)それと体験を文章にもしました。そんなことを通して怒りや悲しみを最後まで「感じ切る」ことができたのです。そういったことが自然とセルフカウンセリングになっていたと思います。




